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太忠岳

ルート:ヤクスギランド入口-荒川橋-蛇紋杉-釈迦杉-大岩-山頂-大岩-釈迦杉-蛇紋杉-荒川橋-ヤクスギランド入口

単独行

ウンコまみれの一夜が明けた。
朝日に照らし出されたテントサイトに、所狭しと転がり落ちている黒々とした直径一センチほどの球体。明らかにヤクシカの糞であろう姿が、そこにはあった。
もっとも夜遅くテントを張った身としては、そんなことには夜が明けるまで、ちっとも気付かなかったワケなのだが。

ここ天筈キャンプ場は私が知る限り、屋久島に於いて唯一の無料キャンプ場である。水が出るのかどうかすら判らぬ炊事場と、色色な物に遭遇しそうなトイレ、そして一面に広がる鹿の糞、それがこの無料キャンプ場に備え付けられた物達だった。

トビウオの干物を焼いたまま出しっぱなしのストーブで、今度は珈琲を淹れる。そして湯が沸くのを待つ間、昨夜の名残を消し去っていく。三岳に酔い、ほったらかしにされたテント廻りを片付けていく。
ペラペラのまな板の横に転がっているオピネルの刃には薄く錆が浮いていた。焼網に載りきらぬ干物を二つに切り、そのまま一晩放置していた所為だった。刃に残った脂を拭い、折りたたむ。家に帰ったら又刃付けをせねばなるまい。それと急務はフロントタイヤの交換だ。センターはスリップラインも出ていないのにサイドの溝は綺麗に消えていた。このままでは雨に降られるとちょっと不味いことになりそうだ。鹿児島に戻ったら先ず第一にそれをしなければならないな、そんなことを考えながら珈琲を啜っていく。

珈琲を飲み終えると、突如として尿意を憶えた。何かが棲み着いていそうな薄汚れた便所は避け、岬の先へと歩を進める。朝日を浴び、煌めく放物線の先を無意識ながら目で追っていく。その落ちて行く先に、堆く積もり散らばったゴミの山をみつける。それはあまりにも屋久島の朝に不釣り合いで、波間に移ろう光の群れまで穢された気がして、心の中で舌打ちをする。そうすることによって、自分の心を誤魔化すように、恥ずかしい過去を思いだし、頭の中で、耳を塞ぎながら叫び声を上げる想像をしてソレを打ち消すかのように、もう一度心の中で舌打ちをした。
崖下まで降りてゴミを拾う、など、やろうとは思わないが、せめて、とテント傍の埋もれた空き缶をゴミ袋に放り込み、キャンプ場を後にする。

"来たときよりも美しく"
ちょっと、偽善的かも知れないが、名も知らぬその地の所有者への一宿の恩義。ゴミを捨てていく者に対するささやかな抗議として、自分の内に折り合いを付ける。

太忠岳への路は、ヤクスギランドの奥から続いている。入口で300円払い、出身県をノートに書き込む。ここ最近、全く雨が降っていないと聞いていたのだが、ランド内にはしっとりと湿り気を帯びた空気が流れていた。
"もののけの森"として有名な"白谷雲水峡"は、幾人ものネイチャーガイド引き連れるグループで騒がしく、落ち着いて見て回ることが出来なかったわけだが、こちらは人も疎らであり、太忠岳へのアプローチとして通るだけでは勿体ないほどの屋久島らしさで満ちていた。
しかし、あくまでもメインは太忠岳登山。ひげ長老、蛇紋杉と辿り、登山道へと入っていった。

登山口で既に標高1,000mを越えているというのに、暑い。凄まじく暑い。大した傾斜もないのに、顔と云わず、頭と云わず、身体全身が火照り続けていた。ちょっとした水場を見付けるたびに、沢へと下り、頭から水を被りながら熱を冷ます。そんなことを繰り返し繰り返し登る内に、いつしか、体力は消耗し、膝が上がらなくなってしまっていた。完全にハンガーノックだった。
路に座り込み、カロリーメイトを囓る。昨夜の干物と焼酎以来、珈琲しか口にしていなかった所為だ。もう一歩も登ることが出来ない。
ここで引き返さなければならないのか、そう、敗北感で打ち拉がれていた。疲労で腰を下ろすなど初めての経験だった。それ程の絶望的な疲れを感じていた。

顎を伝う汗がゆっくりと引き始め、顔の火照りが取れていく。地面を濃く染めていく汗の滴りを見つめるだけだった顔を上げる。今まで登ってきた路がそこに続いていた。ここから下るにしても、ひとまず立ち上がらなければならない。ほんの十分足らずの休憩。その間に、立ち上がれるだけの気力が生まれていた。
脚が上がる。もう少しだけ登ってみよう、引き返すことはいつでも出来る。そう思えるほどには、回復していた。

突然のヤクシカとの出会い。西部林道にて多くの雌鹿や子鹿を見ては来たが、雄の成鹿は初めてだった。
子供の頃、ニホンカモシカと突然出会った時と同じように、背中がざわついた。
暫し、見つめ合い、お互い動きが止まる。彼はこちらに眼を見据えたまま、辺りの音に向け、耳だけを動かし続けていた。
驚かさないように、ゆっくりと、一歩、又一歩と踏み出していく。そして、彼の領域に進入した瞬間、弾け飛ぶように坂を駆け下っていった。そんな、短い出会いではあったが、幸せな気持ちで満たされていた。登頂できる、そんな思いでいっぱいになっていた。

それから先も、決して楽な道程ではなかった。
あの岩を越えたら頂上だろうか、あの坂を過ぎたら頂が見えるのではないだろうか、そんな思いはことごとく、打ち砕かれ続けたが、遂に天柱石の先端が木木の切れ間から顔を出す。それが間違いであったのなら、もう無理だろうと思えるぐらい疲れ果てての登頂だった。

天柱石、その横に大きく張り出した岩によじ登り、写真に全容を収める。その巨岩は高さ38mあまりもあるという。巨大な岩が倒れもせずにすっくと立つその姿は、信仰の対象となるべき神神しさを帯びていた。
だいだらぼっちが山頂に突き刺し、メンヒルを建てました、と言った方が、自然に出来ました、と言うよりも納得できそうな、異様な風景。あまりにも不思議。この姿が見たいが為に、苦労してここまでやって来た。朝食さえ摂っていたなら、もちろんそんな苦労など無く、容易な山。だが、しなくて良い苦労をした所為もあって、感動はひとしおだった。
振り返り、遠方を眺めるがガスっており眺望はない。下に目を遣ると、予想外の高度感に腰が引けながら怖怖と岩を降りた。

太忠岳
標高1497m
鹿児島
累積高低差675m
所在地:鹿児島県 山岳マップ
神社仏閣:ヤク神社
距離:上り 4km、下り 4km
標準コースタイム5:50

ヤクスギランド
標高約1000m
面積270.33ha
休園日:年中無休
入林協力金:300円(高校生以上)
駐車場:40台
電話:0997-46-3221(屋久島町役場)

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